「縄文柴犬」の呼称 その関連について
非営利活動法人 縄文柴犬研究センター ・ 縄文柴犬研究所 五味靖嘉
(お断り:「非営利活動法人 縄文柴犬研究センター」の略称は「JSRC」です。)
はじめに
JSRCの定款に「縄文柴犬」の呼称は研究目的(法務局2009.4)、と宣言されております。
今まで、縄文柴犬の呼称に関連する経緯について、殆ど触れる機会もありませんでした。ここでは、その呼称に関する事実経過と誤謬など、要点を述べることが必要であると考えました。
補足ですが、JSRCでは当初から「縄文柴犬の呼称は研究目的であり、商業目的の利用はご遠慮下さい。」と明記しております。同時に、縄文柴犬とは新しい犬種ではありません。
Ⅰ.縄文柴犬の呼称とは
1987年、私が秋田に越す直前に、急遽、研究仲間が五味宅(茨城・霞ヶ浦)に集いました 集まったメンバーは、故人中城(柴犬保存会・主宰)氏、獣医師2名、遺伝学に詳しい研究者1名、会員(都内)1名、会員(茨城)1名、ほかに途中参加2名、筆者の合計9名です 主な議題は「柴犬の総合的な評価と保存活動の展望」でした。表記に関連する特筆すべきことは「特定の団体や個人の私有物(当時はまだ縄文柴犬の呼称はない)ではない」という考え方が、今後の研究を発展させるために重要である、という画期的な到達点でした。
「縄文柴犬」の呼称に到達する経過は、私が最初にメス・オスの頭蓋標本各一体を、発掘・収集しました。この標本作成は、茂原信生・1987「ヒトの咀嚼器官の未来を示すもの」の論文に影響されたからです。茂原はその論文の最後に「自然は、わずかな環境変化で人類の息の根をとめる可能性があることを忘れてはならないだろう。」と、咀嚼器官の分析を論じた、その最後にこの言葉で結んでいます。
この影響は、間もなく斎藤弘吉・1963「犬科動物骨格計測法」を学ぶ機会に発展しました しかし、斎藤計測法は大変難解でした。先学諸氏の研究報告なども参考にすると、初心者ながら計測方法は統一する必要性を感じ、整理することにしました。イヌの頭蓋・四肢骨の計測に必要となる、全ての計測点を整理し、その図を描く事になりました。
茂原の適切な指導もあり、約7年の歳月が経過しました。その過程の中で、更なる研究課題も得、発展し、探求する事になりました。
その内容を要約すると、我国の1万年の歴史には、自然に対するヒトとイヌとの関わり方がありました。これらの関わりには、地域特性があるものの、ヒトとイヌの「協働」の社会性を捉えることができます。現在の縄文柴犬には、限られた条件にあっても、人と協働できる実験成果が得られた点は、益々、重要になると思います。それは、人と犬は協働で野生動物に対する棲み分けが可能となる、という未来への展望、進化や退化を考えた上での、実験研究が更に求められるということです。従って、他の日本犬やシバイヌと違い、縄文柴犬は研究上にどうしても必要な呼称(2005)となりました。
Ⅱ. 「よみがえったか?縄文犬!」の呼称は、「仔犬販売」の営業が目的
一回目の会談は1981年の晩秋です。1981年、私の恩師「遺稿集」の編集発行の任を受け、後に寄稿者に進呈するため中城宅を訪ねました。私が名乗ると、中城は顔面蒼白、驚愕した出会いがありました。その理由・背景には、どうしても中城自身による、詳しい経歴や私生活に関わる内容など、私に話しておきたかったのでしょう。およそ2時間余、丁寧に聞くことになりました。
今は消え無くなった中城宅(写真参照)は、玄関から斜め正面に台所。その玄関の左に階段・その左奥が8畳間です。室内全体は新聞・雑誌などが身の丈ほどに積まれ、中央に「く」の字型の通路の空間があります。その40~50糎幅の通路に、奥から中城・私・同伴者の3人が一列、折りたたみ椅子に座り、少し寒い季節です。
二回目の会談は、1984年暮れ、科学的な犬談義と仔犬販売が中心でした。事前に電話でテーマを決め、私が持参した文献は、「考古学シリーズ・貝塚の獣骨の知識」と、「日本産動物雑話」です。
討論内容のおよそ3時間、多面的な犬談義から「甦ったか?縄文犬!(最初の表記は漢字)」(漢字にふり仮名を付けたこともある)更に、この時は「縄文」と「柴犬」それぞれのカッコで扱う考えもありました(「縄文柴犬」ではない)が、インパクトが弱いと判断しました。この事は「2012縄文柴犬ノート(P85)」に軽く触れております。
1984年以前は「天然記念物柴犬」、通称「柴保の犬」となっており、主として中城の私費による広告ですから、2分の1頁が多かったのです。表記は「古代の犬」とか「太古の犬:(縄文犬)」など様々な表現が使われております。
しかし、仔犬販売が目的ですから、科学的な分野とか研究とは区別する、との考えは中城氏も同意であり、この点は比較的簡単でした。その為に、一般的・商業利用と区別する必要から、「?(疑問符)」や「!(感嘆符)」を扱う事で、不確定要素とか驚きの感情・願望の範疇など明瞭になるという考えでした。
科学的ではない表現、これが「よみがえったか?縄文犬!」表記の事実ですがやや誇大な感じです。愛犬の友1986頃の広告:1頁5万円、2頁10万円ですが、その一部は繁殖者も2-5万円負担していました。
因みに、科学・研究の分野では、縄文時代の「イヌ」のことを縄文犬と表現することがあります。その意味から、「縄文犬の復元」というテーマが存在したと仮定すると、発掘された縄文犬は歯牙や骨格ですから、色彩とか毛質、行動や能力は推定・憶測の範疇です。仮にゲノム情報が解明されクローンが成功しても、縄文時代から今日まで「1万年の時間・差」による諸問題はどうでしょう。
Ⅲ. 縄文柴犬の研究・保存・普及、その展望について
JSRCの定款・目的、第三条には、『柴犬を愛する人が協力して、縄文柴犬の研究・保存・普及に関する事業を行い、動物愛護の精神に則り、平和で心豊かな人と犬の共存社会を育むことに寄与することを目的とする。』となっております。
この第三条のすべてを解説するのは、本文のテーマから逸れますので、ごく一部分に触れます。
現代の犬の歴史を語る上では、第二次世界大戦に於ける多くの失われた命と、軍事優先の時代がありました。戦争を知らない世代には遠い過去のことです。しかし、この激動の時代「日本犬保存」活動の基礎があるかもしれません。同時に、埋もれていた貴重な体験や記録、論文の存在も無視はできません。この点は大変に難解な問題があります。例えば、長谷部
1945「石器時代日本犬(5段階分類)」論文の存在が議論されていたなら、「日本の犬の見方」は根本から違ったのではないか?と考えられる点、誠に悔やまれる事案です。
このような歴史に鑑み、JSRCでは常に「イヌの見方(形態・性能、史的背景)」など、科学的な視点から探究する必要がありました。そのことは、「jomon-shiba」誌上で可能な議論を深め、多面的に協力し、助け合うことが記録されております。Ⅰ.の項でも触れましたが獣害対策「棲み分け」理論の実験蓄積は、未来展望にも重要であり、社会的な協働に発展することでしょう。私たちは、目先の利益などに一喜一憂するのではなく、長期の展望を描くことでのみ犬との協働社会が見えて来ると考えます。
学術的な表現と違い、他の日本犬やシバイヌとも違う、研究的な呼称「縄文柴犬」は、特定の団体や個人の私有物ではないという、1987年の研究協議の思想が脈々と流れております このことは、前述でも述べたように、JSRCの定款・目的に継承(2024現)されました。、 この理念を確固と掲げることは、将来に向けて開かれた、活動の道標が明らかになるでしょう。(乱文ですがご了承ください。2024.2.10)
縄文柴犬の呼称に関する文献資料
長谷部言人1945「石器時代日本犬」
斎藤弘吉1963「犬科動物計測法」私家本
直良信夫1975.8「滅びゆく動物たち-日本産動物雑話」有峰書店
金子浩昌1984.8考古学シリーズ10「貝塚の獣骨の知識-人と動物のかかわり」東京美術
茂原信生1987.12「ヒトの咀嚼器官の未来を示すもの-歴史的実験としての将軍とイヌ-」歯界展望70-4.5.6.
NPO法人縄文柴犬研究センター 会誌「Jomon shiba、№1(2009.2)~42(2019.6)」
五味靖嘉2012.3 「縄文柴犬ノート(精巧堂出版)」
五味靖嘉2012.初冬号「縄文柴犬について」動物文学.№76-2
黒井眞器2012.初冬号「よみがえったか?縄文犬!について私見」動物文学、№78-2
五味靖嘉2012.5 「イヌの頭蓋撮影の基準について」動物考古学
五味靖嘉2013.3 「犬の頭蓋・四肢骨計測について」動物考古学
藤井忠志・五味靖嘉2014「特定非営利活動法人 縄文柴犬研究センター」野生生物と社会学会、WILDLIFE
FORUM,vol,19-1
金子浩昌・茂原信生・五味靖嘉 2020.10「10周年記念集、縄文人と動物たち、日本のイヌの歴史、JSRCまでの
慨史と縄文柴犬について」NPO法人縄文柴犬研究センター
五味靖嘉2022.8.15「日本のイヌ・縄文柴犬について」野生生物と社会学会、WILDLIFE FORUM,vol,27-1